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ゼオ・ウィムン

[ゼオ・ウィムン]

統一暦1204年〜1260年
ダスダクトジャプラの領主。ジャプラウィムン事件の被害者であったが、後に計画者であることがあきらかになる。

生い立ち

父親はジャプラが成立した直後から赴任した役人リオ・ウィムンで、2番目の子供として生を受けた。
真面目で正義感が強く温厚な性格は父親ゆずりだと言われたが、父親とは違い融通が利く性格で、要領よくいろんなこと成し遂げる子供であった。リオは要領よく振舞うことにあまりよい顔をしなかったようではある。
成人すると父親と同じ役人の道を歩むことになり、その性格からか順調に地位を上げ、統一暦1244年、40歳の時にジャプラの領主にまで上り詰める。

突き当たった困難

ゼオがジャプラの領主となった頃、順調な経済発展を遂げていたジャプラであったが、少しずつ様々な問題が表面化しつつあり、特に問題になりそうなのは貧富の格差であり、それに伴う治安の悪化であった。最初、ゼオは正攻法で物事を解決しようとした。貧富の格差を是正することで治安を回復させたほうが、町全体のためにもなるし、最終的には誰もが幸福になれるはずだと主張したが、それは聞き入れられないばかりか、ゼオの意見を取り入れれば町が衰退し、町が先に滅びて誰もが不幸になるという意見にされてしまう。
ゼオはすぐに正攻法をあきらめ、強引に反対者を失脚させる手段に出ると同時に、社会的弱者の救済を徹底的に行う改革を進める。この時に、後にナイフブを結成し、中心人物となるシム・カルトと知り合いになっている。
恩義を感じていたシムはゼオのためにと、いくつかの事件を起こしているが、どの程度までゼオが関与していたかは明らかではない。
こうして、必ずしも真っ当ではない手段を用いながらも、ゼオの改革によってジャプラの問題が徐々に解決されるようになった統一暦1260年、ジャプラウィムン事件が起き唐突に命を落とすことになる。

事件の真相

凄惨なジャプラウィムン事件の被害者であるゼオに対して、一気に同情が集まるとゼオに敵対していた者に対して非難が集まる。特に事件直後に犯人と疑われたシモロ・ロオッテに対しては苛烈さを増していた。シモロの死、シモロを犯人とする証拠が数々と見つかったことから反対派に対する風当たりは増し、結果的にゼオが推し進めた改革は一気に進むことになる。
事件から、6年後の統一暦1266年カラツキの著書「失われた戦い」において事件を計画していたのがゼオ自身であったことが明らかになる。
ゼオがこの計画を立てた理由のひとつとして、健康問題が絡んでいたと言われている。前年に大病を患っていたゼオは自身の死期を悟り、一気に問題解決を図るために行ったのではないかという物だった。
この説が最も有力だと考えられるが、なぜウィムン家の一族が全て殺されたかに関しては説明が出来ていない。ゼオの徹底と考えることができるが、一族全てを道連れにしたことに異論を唱える者は多く、本来は一族の者を殺す予定はなく、強盗などに押し入られた風を装うつもりが、ウィムン家の誰かに見つかってしまったことをきっかけにナイフブが暴走してしまったためという最もらしい理由で片付けられている。
ゼオの死によってジャプラの問題は一気に片付いたように思えたが、その後再び同様の問題を抱えた時に問題を解決するための救世主は現れず、ジャプラは衰退の道を辿ることになる。

関連年表

統一暦1204年:ゼオ・ウィムン、生誕。
統一暦1244年:ゼオ・ウィムン、ジャプラの領主となる。
統一暦1260年:ゼオ・ウィムン、ジャプラウィムン事件で死去。
統一暦1266年:ゼオ・ウィムン、カラツキの著書「失われた戦い」でジャプラウィムン事件の計画者であることが明らかになる。


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